全米オープン女子シングルスを制した大坂なおみの急成長には、昨年暮れから指導にあたっているドイツ人コーチのサーシャ・バインが大きく貢献している。
彼は大坂のメンタル面強化に取り組むとともに、技術的には時速200kmの弾丸サーヴを「緩急を使って」使い分けるように指導した。
具体的には「常に全力ではなく、70~80%の力で精度の高いサーヴを打つことを重視し、勝負どころで弾丸サーヴを決める」ことを教えたという。
この話で私が思い出したのは、ロサンゼルス・ドジャースで1960年代半ばの黄金期に貢献した「The Left Arm of God(神の左腕)」ことサンディー・コーファックスのエピソードだ。
1955年に破格のボーナスでシンシナティ大学を中退し生まれ故郷のニューヨーク市ブルックリン区を本拠地としていたドジャースに入団したコーファックスは、左腕から繰り出す100マイル近い快速球を武器に三振の山を築く一方で、破滅的なノーコンのため伸び悩み、入団から6年の合計勝ち星は36勝にすぎなかった。
1961年春のヴェロビーチ・キャンプは文字通り「背水の陣」だったが、ここで控え捕手のノーム・シェリー(のちカリフォルニア・エンジェルス監督など)がコーファックスにこんなアドヴァイスを送った。
「なあサンディー、なんで君はいつも目いっぱいの力で投げるんだい。七、八割の力で全身をリラックスして投げて、カーヴやチェンジアップを織り交ぜて投げてもいいんじゃないのか?」
この言葉で「ハイド」だったコーファックスは「ジキル」に変身した。
前年の1960年には8勝13敗、防御率3.91、奪三振197に対して与四球100だったのが、1961年は勝ち星を10個増やして18勝13敗、防御率3.51、奪三振269で初のリーグ1となり、与四球は96個で、K/BB(奪三振/与四球比率)は1.97からリーグ1位の2.80と大幅に改善している。
さらに1963年には25勝してわずか5敗、防御率1.88、MLBの左投手としては1904年のルーブ・ワッデル(フィラデルフィア・アスレティックス)以来の300個越えとなる306奪三振を達成し、ドジャースのリーグ優勝に貢献してMVPとサイ・ヤング賞を受賞。ヤンキースとのワールドシリーズ第1戦では当時のシリーズ記録だった1試合15奪三振を達成し、ドジャースはヤンキースを4戦ストレートで下して世界一に輝いている。
対戦相手ヤンキースの名捕手だったヨギ・ベラはその快投ぶりをみて、「ヤツがシーズンで25勝をした理由はよくわかった。理解できないのはなぜ5敗したのかということだ」との迷言をつぶやいた。
さらに1965年には当時のMLB記録となるシーズン382奪三振(のちにノーラン・ライアンが更新。現在も左腕では最多記録)を達成するなど、26勝8敗、防御率2.04でチームをリーグ優勝と世界一に導き、二度目のサイ・ヤング賞を受賞。さらに翌1966年には自己最多の27勝で三度目のサイ・ヤング賞を獲得したが、慢性的な左ひじの故障のため、このシーズンを最後に30歳の若さで引退している。1962年からの5年連続防御率1位は超人的な記録と言えるだろう。
コーファックスを覚醒させたシェリーは、選手としてはドジャース、メッツでの5シーズンで通算打率.215、18本塁打、69打点の数字しか残していないが、のちに指導者となり、エンジェルスの監督も務めている。
一方、大坂を指導しているサーシャ・バインも、プロテニスプレイヤーとしては世界ランク1000位台に過ぎなかったが、22歳から今回全米オープン決勝で大坂と対戦したセリーナ・ウィリアムズのヒッティング・パートナーを8年務め、さらに全豪オープン女王のキャロライン・ウォズニアッキのコーチも担当していた。
シェリーもバインも、選手としてはパッとしなかったが、裏方として一流選手を支えていくなかで、指導者としての資質が磨かれていったということなのだろう。
「名選手必ずも名監督ならず」という言葉があるが、日本ではまだまだ「選手と監督(指導者)としての能力は別物」という考え方が、特にプロ野球界で定着しているとは言い難い。
コーファックスと大坂なおみを選手として大成させたシェリーとバインの仕事ぶりが、そんな傾向に一石を投じてくれればいいのだが。